17才からの哲学

紙にひたすら書いていた17才から始めた哲学。哲学とは、今生きている人生にあり(きっと)

人生における幸福と不幸にいて①

表題について、

私は幼い頃、下記のように教えられてきた。

 

①幸福と不幸の量は一生を通して人間皆同じである(人生の前半に不幸が多かった人は人生の後半には幸福が多くなり、反対に若いうちに楽をして生きてきた人は歳をとって苦労する)


②幸福と不幸の量は一生を通してその人間の中で同じである(幸福が多い人は苦労も多く、反対に幸福が少ない人は苦労も少ない)

 

③幸福の量は人それぞれ違う、人生とは修行である為、不幸が多い人は魂のレベルが高く、

精神修行をしている

 

“  本当にそうだろうか ”

 

「あなたは子どもの頃からうんと苦労して生きてきたから、後半とっても楽に生きられるよ」

 

「若い時に楽をして生きてきた他の人は

皆あとで大変な思いをするんだよ」

 

「あなたは精神レベルが高いから

苦労をする人生なんだよ」

 

“ 本当に、絶対にそうだろうか ”

 

あの頃に戻って、幼い私が聞いたら、

大人は何て言うだろう。

 

「絶対かなんて、そんなの分からないよ」

そう逃げるのではないだろうか。

 

今の私が聞いたらどう答えるのだろう。

 

「まだたった20年と少しでしょう」

「生きてたらこれから幸福が待っているかもしれないじゃない」

 

そう答えるのだろうか。

そんな曖昧な言葉で生きられるか。

もし違うとするのなら、

私はどうしてこれからも生きていけるだろう。

 

 

ずっと一人で歩いてきた。

通りすがりの大人からよく聞いた言葉。

 

「あなただけじゃないよ」

「皆苦労はあるんだよ」

「自分より軽いように見えても、見た目じゃ重さは分からないんだよ」

 

だけど歩いても歩いても

親の金で生きてきた人には敵わない。 

大人になって思った。

どう見てもやはり違う、私の方がずっと重い。

 

高校生の頃は、まだ良かった。

学校の先生は皆「偉いね」と言ってくれた。

「よく頑張ってきたね」と褒めてくれた。

 

けれど、高校を出てすぐに気付いた。

世間で偉い、凄いと言われるのは、

苦労をしてきた人じゃない。

 

「親の金で進学した人」が偉い。

「親の金でブランド物を買ってもらった子」が凄い。

 

“あなたが凄いんじゃない”

“自立した事もない癖に”

 

心の中でいつも思った。

一人で生きてきた自負もあった。

 

けれど社会に出たら。

どれだけ必死に生きて辿り着いた場所であっても、世間は過去も背景も見てはくれない。

今持っているものが全てだ。

 

幼い頃に教わった言葉。

①から考察したい。

 

①幸福と不幸の量は一生を通して人間皆同じである(若いうちに不幸が多かった人は人生の後半には幸福が多くなり、反対に若いうちに楽をして生きてきた人は歳をとって苦労する)

 

もしそうならば、

私はこれから、幸福ばかりな筈だ。

皆は苦労がやってくる筈だ。

そうでないと、やってられない。

 

例えば、人生のシステムが平等に

生きづらいハンデを背負うのならば

納得できる。

 

【例】

金に苦労する家に生まれる=美人に生まれる

金持ちの家に生まれる=不美人に生まれる

 

しかし、世の中そんな風にはなっていない。

“それならば、それは何故なのか。”

 

人生トータルとして見た時に、

人間皆苦労の量が同じであるのならいい。

しかしそうでないと言うのなら。

それは何故か。

 

“納得のゆく理由を説明が欲しい。”

 

(※不幸と苦労が必ずしも比例しない

話は一度置いておく)

 

 

これを言うと、“幸福感”と“不幸感”の話を

持ち出す人がいるだろう。

 

貧しい=不幸な訳ではないだとか。

不美人=不幸な訳ではないだとか。

 

勿論、必ずしもそうとは限らない。

貧しい国でも人々皆平等な国は幸福度が高く

日本のような先進国が格差社会により幸福度が低いなんて事例もある。

 

ただ食べ物に苦労をした事もないような人間が、

 

「幼い頃から美味しいものを食べてきた金持ちの家の子どもは食の感動が少ないけれど、

食べものを満足に食べられなかった子は大人になって色々なものを食べられるようになった時感動が多いよ。ほら幸福感は同じだ。」

 

と言うのなら、ではあなたはもし選択できるとしても後者を選ぶのですね、と言いたい。

余程変わり者でない限り、今世金持ちの子どもも金に苦労した子どもも前者を選ぶ子が大半だろう。

 

(勿論、金銭問題だけでなく家族仲や環境までトータルを見て“この家”と選べるのであれば金銭苦の家を選ぶ可能性は上がる。

しかし金銭苦でない家族仲も環境も悪くない家など多く存在する為、今世の家族を選びたい等かなり限定的な意志の場合と考えられる)

 

 

そして、そもそも私はここでは

“幸福感”と“不幸感”の話はしてないない。

 

どんなに恵まれて生まれてきた人でも

皆不平不満を言うだろう。

私含め人間は、一つ願いが叶っても

感謝もろくにせずあっという間に忘れて

すぐに新たな幸福を願い、

現状を不満に思う、欲深い生き物だ。

 

生まれた時から与えられている幸福と不幸の量に大差があれど、

それを前提として人生を歩む中で味わう

“幸福感”と“不幸感”は大差ない可能性もある。

 

なので、私はここでは

本人の力ではどうする事もできない

元々の幸福と不幸(苦労)の量の大差について問うている。

 

「生きていたら何が起きるか分からない。」

「人生逆転する可能性もある。」

 

これは分かる。

しかし、“かも知れない”を信じて生きられる程

もう精神余力がない。

 

「本人の努力でどうにかなる部分もある」

 

これはおかしい。

本人の努力ではなく、

前提として得た幸福の量が違っていたならば。

 

本人のせいでない、

前提としての不幸(苦労)の量が違っていたならば。

 

なんて偉そうにと言われるかも知れないが、

私は今後の人生、宝くじが当たるような

努力なしの恵みを与えられなければおかしい。

 

私よりずっと楽をして生きてきた人は皆

自分の力ではどうする事もできない、私と

同じ量の不幸な事が起きなければおかしい。

 

私が努力で向上したとして

「はい、平等ですね」

 

人生の前提的な苦労の量が違ったところで

「もう良いじゃない、あなたも幸せになったのだから」で済まされるのは

「平等」ではないのだ。

 

 

次頁②では、

私の人生の過去の例を挙げつつ考察したい。